Date - 2020.12.06
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僕らは考え続けることでしか、未来予想図を想い描くことは出来ない。
子曰わく、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず。
−孔子−
僕が論語を初めて読んで、この孔子の言葉を知ったのは、17歳の時だった。
今でも覚えている。心地よい秋の季節が終わりを迎え、冬が訪れる少し前だった。
推薦入試で鍼灸の専門学校への入学が決まり、同級生たちより早く次のスタートが決まり、時間を持て余していた僕はとにかくいろいろな本を読んでいた。
毎日のように学校の図書館に通い、好きだった様々な小説を読み、1日1冊ペースで本を読んでいた頃にふと立ち寄ったTSUTAYAの図書コーナーでたまたま手に取った1冊が、論語の本だった。
佐久 協著 高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)
自分と同じ高校生が感動したという文に惹かれ手に取った1冊。
その中に孔子の様々な言葉が分かりやすく解説してあり、中でも自分のその後において大きな人生の指標になった言葉がその言葉だった。
孔子よりも早く成長することが出来たならば。
その言葉は、七十三歳でその生涯を閉じた孔子が弟子たちに向けて贈った遺言のようなメッセージ、人生の指標となる言葉だった。
もし、自分がその孔子が歩んだ生涯より早いペースで指標通りに進めたならば、孔子が死ぬまでに達することが出来なかった領域に達することが出来るんじゃないかって、心の片隅で思ったことを今でも覚えてる。
スタートは、そんな些細な、小さな好奇心から来るものだったように思う。
当時の僕は、バイト先の店長から「年齢は17歳だけど、精神年齢は30歳くらいだな。」と言われる子供だった。
中学1年生の春先に両親が離婚し、大変な想いをした中学時代を経験したことが僕を、人よりも早く精神的に成長することになった理由だったと今振り返って思う。
成長しなければ、不安に押し潰されて自分で命を絶っていたと思う。
(実際にその1歩手前まで行っていた。)
思い返せば、僕は16歳くらいから常に先を考えて行動をするようになっていた。
当時はまだ考えても5年先くらいだったけど。
高校1年生の冬に進学する先を決め、大人になってから歩む道をはっきりとイメージするようになったのは、高校2年生の秋だった。
十五で学を志した孔子と比べれば、始まりは少し遅かったのかもしれない。
僕が自分の意志で学(今の道)を志したのは、16歳になった少しあとだったから。
でも、三十にして立った孔子と比べると、自立したのが23歳の時だったから、その点は、僕の方が早かったと言える。
そして、29歳の今、僕は、惑わないステージに辿り着くことが出来た。
これから先の人生、死ぬまでの道が明確になった。もう惑わないと自信を持って言える。
四十にして惑わず。と言った孔子よりも約10年早い。
まだ、天命は知らない。
これから先、孔子が辿った道をどれだけ早く通過出来るかは分からない。
でも、もしかしたら孔子がたどり着けなかったその先を見ることが出来るかもしれない。
その先のヒントは老子にあるんじゃないかって思う。
高校3年生の冬に様々な古代中国の思想家たちが残した書物、考え方を読んだ。
孔子、荘子、韓非子、孟子、筍子、孫子。
誰か1人の思想に傾倒するのではなく、いろいろな考えに触れようと思って古代中国の思想家たちの名前が入った書物をとにかく読んでいた。
きっかけは、孔子。
中でも1番影響を受けたのは、老子。
この先どんな人生を歩んで行くかは、まだわからないと言うべきかもしれないが、
僕の中には未来予想図がはっきりとある。
きっと、こういう人生になるだろうって。こうしたいって。
考え続けること。簡単なようで難しいこと。
答えのない問いについて考え続けられる人はそうあまりいないように思う。
人々は、明確な答えを欲し、自分で考えるよりも誰かからの答えを望む。
常に答えがある教科書を元にした試験を受ける教育を幼少期から12年間以上も受けていれば仕方のないことなのかもしれない。
だけど、社会に出てみれば、明確な答えがある問いの方が少ない。
最善を尽くしたとしてもそれが回答であるかはわからない。
出来ることは、結果を見てそれがどんな結果をもたらしたかを知ることだけ。
結果=答え ではない。
結果はあくまで行動の結果であって、テストの答えのようなものではない。
その出た結果を良いか悪いか判断をすることは出来るのかもしれないが、やはり1つの完全なる答えにはなり得ない。
そういう問いを僕らは今後生きている限りずっと考え続けなければならない。
考えることを辞めた時、人は成長を止める。
成長をし続けたいのであれば、僕らは考え続けることを止めてはいけない。
明るい未来を望むなら。
今後、自分がどんな人生を歩むことになるのか。
それは、ある程度自分でコントロールすることが出来る。
不平不満を言うのは、いつだって自分でコントロールすることを手放した人たちだ。
もちろん、自分でコントロール出来ないことにも生きていれば直面する。
それでも自分でコントロールすることが出来ることをコントロールしておけば、
僕らはきっと望む道へと進んで行ける。
目の前の一瞬一瞬のみに集中することで、たどり着ける道の先もあるのかもしれない。
それで良いと受け入れた人であれば、そんな人生も良いのかもしれない。
ただ、もしあなたが自分の望む未来に辿り着きたいのであれば、
自分が望む未来予想図を作るために、考え続けなければならない。
孔子は、四十で辿り着いた。
あなたは何歳でたどり着くのだろうか?
(何歳で辿り着いたのだろうか?)
もし孔子が八十まで生きていたのならどんな領域に達していたのだろうか。
その答えを知る人を僕はまだ知らない。
いつの日か、その答えにたどり着く日を夢想して、今日も僕は考え続けている。
そして、自分が想い描く未来予想図を実現する為に、一歩一歩、歩み続けてる。
考え続けた先にどんな未来が待っていたとしても僕は考え続けることだけはやめない。
そして、みんなにも考え続けることをやめないで欲しいと思っている。
休止を入れても良い。小休止を入れた後、また立ち上がり、考え続けるのであれば、きっと大丈夫。
考え続けていれば、未来予想図がきっとはっきりと見えてくる。
詳細を細かく想像出来る未来予想図は、きっと、それにとても近い形で現実となる。
これまでも、これからも、人間が実現して来たことは、過去に誰かが想像していたこと。
考え続けていれば、きっと実現する日がやって来る。
どれだけ先まで考えることが出来るかは人それぞれだけど、惑わない領域まで行けると、
漠然とした人生への不安は無くなる。
学び続け、考え続けた先にはきっと明るい未来が見えて来る。
考え続けよう。僕も考え続けるよ。
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