Date - 2020.07.21
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29歳の今考える、自分の死ぬ時、死に方について。
ここ数年、“死”について個人的にいろいろと考え、様々な書物を読み、様々な映画を観て、自分の死について、家族の死についていろいろな可能性を考えつつ、“死ぬこと”について向き合って来ました。
また、この1年数ヶ月は、在宅診療クリニックで働いていることもあり、
実際に医師が患者さんのお看取り、直接的な言葉で言えば、死亡確認をする場面に立ち会って来ました。実際に息を引き取る場面に立ち会ったこともありました。
今までも医療者として、鍼灸師として働いて来ましたが人に死が訪れる場面に出会すことはほとんどなかったので、“死”が今ほど身近に感じることはありませんでした。
人は必ず死ぬ。
これは避けようが無い事実のように思います。
もしかしたら将来、人が死ななくなる時代が来るのかもしれません。
肉体は滅びても生き続けることが出来る日が来るのかもしれません。
しかし、死があるから生が輝くのであって、永遠に死ねない日々はきっと辛い日々にしかなりません。
限りあるこの人生をどのように生きるのか。
それは、いずれ来るであろう死を見つめること、死と向き合うことでより鮮明に見えてくるのではないかと思います。
ニュースを見れば、文字で人々の死を目にする機会が毎日のようにあります。
ある時は、有名な芸能人の名前で。
ある時は、単なる死者数という数字で。
ひとつ言えるのは、どのようなニュースだったとしてもそこには、今を生きる僕らのように実際に生きていた人が居たという事実があるということ。
そして、いつかその日か、僕らにも死ぬ日がやってくるということ。
果たして、僕たちにはどのような死が訪れるのでしょうか。
僕は一体どのように死ぬのでしょうか?
現代において、自分の死に方を選べる人は、ごく僅かでしょう。
歴史上でも自分で望んだ最後を自分の決めたタイミングで迎えれた人はほとんど居ないと思います。
自分がどのように死にたいのか考えたことがない人の方が多いのかもしれません。
皆さんがいつか来るであろう自分の死について、家族の死について考えるひとつのきっかけになれば良いなという想いを込めて、僕が考える自分の将来の死に方について書き記しておこうと思います。
これはあくまで今現在の僕が望む、僕の人生の終わらせ方です。
将来、考えが変わるかもしれません。
予想もしていない事故や天災で突然死ぬかもしれません。
でも、だからこそ、自分の理想とする死に方を文章に残しておこうと思います。
29歳の今考える、理想の死に方について
20XX年、僕が死ぬ前日、それはきっと悲しみではなく、感謝に満ち溢れた日になっていると思う。
僕は、将来、安楽死という選択をしたいと考えています。
カプセル型の安楽死の機械に入り、自分でスイッチのボタンを押し、窒素ガスに満たされて行くカプセルの中、眠るように意識を失い、そして、心臓が鼓動を止める。血液の循環が止まり、脳へ酸素が回らなくなり、全身の機能が止まり、僕は死ぬ。
死んだ僕の身体は、木の養分となり、骨も残さず微生物に分解され、次なる生命の糧となる。
これらは、すでに技術的には可能となっています。
詳しくはこちら↓の記事を読んでいただくと良いでしょう。
https://gigazine.net/news/20191211-recompose-seattle-human-composting-facility/
https://gigazine.net/news/20191218-philip-nitschke-design-for-death/
僕は、自分の身体を思うように動かすことが出来ず、機械などの補助を借りても1人で動けなくなった時、もしくは認知機能が保てず自分が自分で無くなる前に安楽死という選択を選びたいと考えています。
施設へ入り、認知症となり、寝たきりとなり、毎日を寝て過ごし、家族や友人も分からなくなり、ただ生かされているだけの人を見て来ました。
それでも生きていて欲しいと思う家族も居るのは事実です。
それが悪いと思いませんし、それぞれの選択で決めれば良いと思います。
ただ、僕自身は、自分で自分のことが何も出来なくなっても生きているという選択はしたくない。
生きている価値が無いということではなく、一人立ちしてからこれまでの人生を自分自身で決め、人々の助けを借りながらも自分自身でやって来たという経験があるからこそ、自分で何も出来ず、介助してもらわなければ生きられないという生を続けたくはない。
Me Before You(邦題:世界一キライなあなたに)という映画に出てくる登場人物の心情と近いものがあるのかもしれません。
ただ何もせず日々を過ごすなんて、きっと僕には耐えられない。
昔から暇が嫌いだった僕には、
病院で助産師として勤務中の母に“暇なんだけどどうしたらいい?”と電話するような子供だった(記憶にないくらい小さかった時)僕には、ただ何もせず過ごす日々はきっと耐えられない。
施設に入って決められたサイクルの生活をするのも嫌だし、
デイサービスに行くのもきっと嫌だと言うと思う。
自分のペースで、自分の好きなように本を読み、考え事をし、運動をし、やりたいことをする。そんな生活が出来なくなるような日々が来るのであれば、やっぱり僕は安楽死を選びたい。
治る見込みの無い病気を抱え、痛みに苦しむ毎日を過ごすわけでなければ安楽死という選択の許可をするのは倫理的に難しいのかもしれない。
人を1人死なせるということは、やはり重い選択なのだと思う。
だけれど、その人にとっては生きることよりも安楽死をすることの方が適している場合もあると僕は思う。
絶望の淵で悲しみに暮れて自殺を選ぶのではなく、感謝と満足感を頂いて死ぬことが出来るのであれば、安楽死という選択を選ぶ権利を人々が持つことは決して悪いことではないと僕は思う。
僕は、自分が死ぬ前日に、お世話になった人々やその時に生きている家族と自分の葬式、生前葬をしたい。
自分の葬式に参列し、それまで生きた自分に感謝を送り、笑顔で皆に別れを告げ、お互い悔いのない最後の時を過ごし、翌日に1人おだやかに人生を振り返る時間を過ごし、最後に感じる想いを文章に書き記し、“ああ、良い人生だった”と思いながら最後の時を迎えたい。
それが29歳の今の僕が考える人生の締めくくり方。
生前葬の前には必要な手続きは全部するし、自分が死んだ後処理の依頼も全部する。
自分が死んだ後に誰にも負担がかからないよう手配をする。そんな死に方を僕はしたいと思っています。
おだやかな“死に方”と“死ぬ日”を選ぶことは今までは出来なかった。
でも、これからの時代は自分で自分の死に方と死ぬ日を決めることが出来る日が来ると僕は思っています。
そして、きっとそれが人々がより良い生を生きる助けになるんじゃないかと僕は思っています。
悲しみと絶望に支配された自殺ではなく、感謝と達成感に包み込まれた安楽死という選択で自分の人生を終えることが出来るようになった時、人々は希望を抱いたまま生を全う出来るようになるのではないかと僕は思います。
前向きな気持ちのまま自分の死ぬ日を選べるという選択肢があるということは、人々が年老いて思うように体が動かなくなって行っても希望を抱いて日々を送ることが出来るようになるということだと僕は思います。
そして、死ぬことへの恐怖が無くなる。そんな日が多くの人に訪れた時、人々はより希望に満ちた人生を送れるようになるんじゃないかと僕は思います。
自分で自分の最後を選べる。それはきっと幸せなことだと思う。
終わり良ければ全て良し。だと僕は思います。
その終わりが良いものとして存在すると分かっていれば、人々はもっと前向きに生きて行けるんじゃないかって思います。
もちろん、倫理的な問題や乗り越えないといけない壁は多くあるでしょう。
誰がどうやって安楽死の許可を出すのか、どのような基準で許可を出すのか。
そして、その責任を誰が背負うのか。
安楽死の合法化の為に解決しなければならない課題は多いですが、
尊厳死という言葉が広く知られて来た現代だからこそ、
“死”という誰しもに訪れることについて議論を重ねて行けるのではないかと思います。
僕は、自分の理想とする最後を迎える為にも、今後の人生を通して、人々の死と向き合い、人々がより良い死を迎えることが出来る為のサポートをし、安楽死の合法化に向けて議論を重ねて行きたいと思っています。
安楽死を考える人が適切なタイミングで死を迎えられるようにサポート出来るようカウンセラーとして将来働きたいとも思っています。
どのような資格を取るのが最適なのかはまだわかりませんが、臨床心理士なり心理カウンセラーなり、必要な資格を取って、誰よりも死と向き合って生きて行こうと思っています。
29歳という年齢ではありますが、僕はもう一生分遊べたと思っているし、好き勝手生きることが出来て、個人としてやりたいことをほとんど出来たと思っています。いつ死んでも良い。
これは比喩じゃなくて、本気で言えます。
今日死んだって良い。ただ、命を粗末にするつもりはないし、医療人として患者さんの手本となれるよう健康に気を使って日々生活しています。
長寿の家系なので何もなければ長生きするのかもしれません。
それでも明日死ぬかもしれない。
少し先の未来のことはある程度予測出来たとしても絶対は無いです。
何が起きるか分からない。
どんなことが起こったとしても後悔の無い日々を僕は生きて行きたい。
だからこそ、自分の死についてとことん考えるし、どんな最後でも後悔をしないよう毎日を生きています。
それでも、もし、自分で最後の瞬間を選べるのであれば、それ以上の幸せはないとも思います。
自分が望む最後に向かって今を全力で生きる。
先の見えない道を走り続けるのは辛いけど、ゴールが見えている道を走り続けることは案外辛くないです。
だから僕は、どんなに忙しい日々を過ごしていても走り続けることが出来るのかなって思います。もちろん、疲れれば休みますけどね。
それでも歩みを止めず、一歩一歩ゴールへ向かって進み続ける。
それが、2017年の夏頃から約3年考え続けた自分の死に対する今現在の僕の答え。
死は、怖いものじゃない。
死は、ゴール。
死は、救いとなり得るもの。
死を選べることは幸せである。
この記事を読んだ皆さんが自分自身の死について、家族の死についてどのように考えているのか、機会があればいつか聞かせてください。
もし、今まで死についてあまり考えたことが無いと言うのであれば、この機会に少し考えてみて欲しいなと思います。
あなたは、どのように死にたいですか?
自分が望む死に方をする為にはどのように生きる必要がありますか?
死を見つめることで生が見えてくる。
より良く生きる為にも今一度死に様について考えてみてください。
ひとつ言えることは、どのような死に様を選んだとしても僕は100%あなたの想いを尊重します。
他の誰にも理解されなかったとしても僕はあなたの想いを否定しません。
あなたが満足してこの素晴らしきも残酷な世界から旅立つことが出来るなら、きっとそれは尊重されるべきものだと思うから。
あなたにとってより良い人生の最後が訪れますように。
MITS
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