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Date - 2018.08.17

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みっつが豪華客船に乗るまでの話 −カリフォルニア留学編-

 

専門学校を卒業し、鍼灸あマ指師の国家試験に合格し、社会人としての1歩を踏み出すまでの話。

 

今回の話は、前回の続き。

まだ前回の記事を読んでいない方は、こちら↓と合わせて読んでね。

 

みっつが豪華客船に乗るまでの話 −専門学校編-

 

カリフォルニア留学までの道のり

 

専門学校3年生になり、アメリカに魅了されていた僕は、卒業後渡米することを決めた。

しかし、残念ながら大学へと進学する費用が無かった。父親には専門学校に通う費用を出してもらい、これ以上は何も出せないと言われていたので、ATCの資格を取りに大学進学をする選択肢が僕にはなかった。

 

また、自分が本当にアメリカでやって行きたいのか、海外でやって行けるのか自信がなかったのでとりあえず半年留学して自分の気持ちを確かめに行くということにした。

アルバイトで貯めたお金が多少あったけれど、
それだけでは語学留学に行くことは無理だった。

 

 

そこで頼ったのが母親。

母はすでに新しい家庭を持っており、異父兄弟である弟がまだ小さかったこともあり、経済的に余裕があったわけではなかったので直接お金を出すことは出来なかったのだけど、
祖父母にお願いして、兄弟姉妹でわける遺産の前借りとして100万円を受け取り、僕に支援してくれた。

 

また、母の姉がカリフォルニアに住んでおり、
語学学校に通う間食費だけで居候させてくれると申し出てくれた。

この助けが無ければ僕は卒後すぐにアメリカへ語学留学することは出来なかっただろう。

母と母の姉家族、祖父母には本当に頭があがらない。
また、父も毎月留学中の生活費を少し支援してくれていた。

 

語学留学から日本へ帰って来た時に母校のあった神奈川県小田原市から実家のある名古屋までの交通費が無くてヒッチハイクで実家に帰ったくらいだから、父のサポートが無ければ無事に留学から帰ってくることが出来なかっただろう。

それほどまでのビンボー留学であった。

 

お金の問題がクリア出来そうだと分かったあと僕がしたのは英語の勉強
国家試験の勉強とATの勉強と同時進行で英語の勉強を進めていた。

高校の英語のテストで赤点を取っていたレベルで、
将来絶対に英語は使わないとたかをくくっていたツケが回って、

ほぼ何も分からない状態からのスタートだったので中学英語を一からおさらいして留学の準備をした。

 

半年の勉強のかいもあり、語学学校でのレベル分けテストでは5段階の真ん中のレベルのクラスに入ることが出来た。

語学学校のクラスにて

 

英語の問題の目処が経ったあと手をつけたのは最後の壁、ビザの取得や飛行機のチケットの予約、そして語学学校への入学申請などの事務作業である。

エージェントを介してやれば、楽なのだが、
自分はエージェントに支払うお金がなかったのですべて自分で調べてやった。

語学学校の手続きだけは、ウェブで無料で留学サポートをしている方がいらっしゃって、その方のホームページから連絡を取り、現地の学校に手続きをしてもらった。

 

学費と交通費、その他の手続き費用だけで祖父母からもらったお金の3/4が飛んで行った。

アメリカ留学中は学生ビザの関係でアルバイトが出来ないので、なんとか余ったお金でやりくりをすることにしてカリフォルニアへと飛び立った。

 

 

旅立ちからカリフォルニア留学前半


僕がLAへ飛び立つ飛行機に乗ったのは、鍼師・灸師・あマ指師の国家試験試験合格発表当日だった。

出国ゲートの前で母校に電話をし、無事に合格したことを確認してすぐゲートをくぐった。

出来れば資格の申請をしておきたかったのだが、時間がなかったので申請は帰国後にすることにした。なのでLAについた時は僕は何の資格も持っていないただの学生だった。

 

LAの空港に迎えに来てくれたのは、11年振りに会う叔母さんと従姉妹たちだった。

向こうは以前の面影を残していたので僕はすぐに気づくことが出来たが、僕は昔とだいぶ変わり、しかも頭を丸めて行ったので、後日従姉妹曰く、最初僕が声を掛けた時は知らない変なおっさんに声を掛けられたかと思ったそうだ。

 

それでも日本語を話し、自分たちを知っているのはみっつしかいないということで、すぐに歓迎してくれて家まで連れていってくれた。

 

叔母さん家族の家は南部カリフォルニアのオレンジカウンティという街にある。
一時期流行ったアメリカのドラマ、The O.Cの舞台となった地域だ。

オレンジカウンティという地域にある、アーバインという街が僕が半年過ごした場所で、
ここにはアジア人が多く、全米で安全な都市ランキング第2位に選ばれたこともあるほど安全な場所で、日本人留学生も多い場所である。

 

アメリカの危険な地域には鉄柵が家の窓やドア、お店の窓ガラスに付いていることが普通なのだが、このアーバインという街にはそういう家は無く、特に僕が住んでいた場所は夜に女性が一人でランニングしてるくらい安全な地域だった。

お金が無かったこともあり、僕は大半の時間を家と語学学校の往復だけで過ごした。

家の近くのコーヒーショップで勉強することもあったが、大抵は語学学校の建物が入っていた大学の図書館で勉強をしていた。

 

授業は週5日、朝の8:30から13:00まで

土日はいとこや叔母さん夫婦に連れられて出掛けることもあったが、
大半は家で過ごした。語学学校で仲良くなった日本人の友達も出来たが、彼らと一緒に遊びに行くことはあまりなかった。(本当にお金がなかった。)

当時の僕が好きに使えたお金は、1週間で約1000円。週に2度大学の食堂かコーヒーショップに行ったら終わりの金額である。

そのおかげもあってか勉強に集中することが出来た。
勉強以外にもインターネットでさまざまなことを調べ、将来どう生きるかについて毎日考えていた。

鍼灸師以外の職業に就くことさえも考えた。
全く違う職種も考慮に入れ、自分が何をしたいのか、どういう人生を送りたいのかをフラットな気持ちで考えるようにしていた。

 

また、叔母さんの紹介で、サンディエゴにあった鍼灸クリニックで見学をさせてもらいアメリカでの鍼灸治療について見て学ぶことが出来た。

そこで学生時代に築きあげた自信を根こそぎおられ、
何くそと思って鍼灸や解剖の勉強をしたのもあり、留学中に特に解剖学の知識が身に付いた。

 

僕がカリフォルニアに行くと決めたきっかけは、
LAで鍼灸師・ATCとして働いている僕の先輩であり、僕の師匠である小松武史氏がいたからである。

小松氏のホームページはこちら↓
https://japanesehealing.com

 

 

留学中は、師匠のクリニックへ何度か行き見学させてもらい、鍼灸の勉強や進路相談をさせて頂いていた。当時は解剖実習の受け入れなどもやられていたので、日本の専門学校生相手に御献体を使った解剖実習のアシスタントも何度かやらせてもらっていた。

 

同じ語学学校で学ぶ日本人やその他の国の生徒達が遊んでいる中、
僕は毎日何時間も勉強をしていた。高校受験振りに集中して勉強をしていた。

間違いなく鍼灸の国家試験の勉強より集中して長い時間勉強していた。(それはそれでどうかとも思うが)

 

 

僕のカリフォルニア留学の思い出のほとんどは勉強だと言っても過言ではないくらい勉強をした。お陰で今僕は英語を流暢に話すことが出来ている。

のちに豪華客船に乗るなんて微塵も考えていなかったけど、この時の努力が豪華客船で働くことが出来た大きな理由の一つであると断言出来る。

 

 

英語の勉強の為に当時日本との遠距離恋愛で付き合っていた彼女と別れるという選択をしたが、今となってはそれで良かったのかなと思う。
(もちろん英語の勉強以外にも別れを決意した理由はある)

 

カリフォルニア留学の前半のハイライトは、
留学して2ヶ月が経った頃にいとことその友達と行った初めてのラスベガスだろう。

 

かの有名なベネチアを模して作られたホテル、ベネチアンのスイートルームに13人で泊まり、彼らとお酒を呑んでクラブへ行き、夜のラスベガスを歩き周り、スイートルームの床で寝袋で寝たのは良い経験だった。

語学学校の生徒以外で初めてしっかりとアメリカ人の同年代の人達と話したのもこの時で、
英語脳が出来始めたのもこの時。

 

お酒が入って積極性が増したのもあり、いとこと別行動でアメリカ人グループに混じってベガスのクラブや街へ繰り出し英語を話したお陰で一気に語学力が伸びた。

思えばこの日を境に僕の英語力がどんどん伸びて行った。

 

 

カリフォルニア留学後半

 

語学学校での勉強が順調に進み、中級クラスから中上級クラスへ無事に進級することが出来、初めての解剖実習のアシスタントを終えた頃、僕は新たな挑戦をしていた。

それは、語学学校の建物が入っていた大学のアスレティックトレーニングルームでインターンをさせてもらうことであった。

 

大学のホームページからATCの方の連絡先を見つけ、ダメ元でメールを送ったのが6月の終わり、ちょうど学期が終わり大学が夏休みに突入する時期だった為、すぐに返信はなかったものの、7月の終わりに返信が来て、学生の練習が再開するタイミングでいつでもアスレティックトレーニングルームに見学に来て良いとの返事を頂いた。

8月の初めから僕が日本に帰る9月の半ばまで週5で毎日インターンとして通わせてもらった。語学学校の授業が終わってから少し勉強をして14時半からアスレティックトレーニングルームが閉まる18時まで毎日様々なことを教えてもらった。

大学に在籍していたATCの方は2人で、僕より一回り、二回りも年上で経験の数なんて比べ物にならないのにずっと対等に接してくれ、選手のケアに僕のアドバイスを求めたりしてくれた。お互いの知識を出し合い様々なディスカッションが出来たのはとても良い思い出だ。

 

僕が今でもずっと憧れているATC像は、その大学で会った2人のATCだ。
人間性に優れた素晴らしい人の元でアスレティックトレーニングの実際の環境を経験することが出来た。

 

語学学校の留学生の英語ではなく、ネイティブの英語の中でインターンが出来たのはとても良い経験だった。半年という短い期間でも僕の英語が豪華客船で働けるほどのレベルに到達できたのは間違いなくこの1ヶ月の経験があったからだと思っている。

 

 

帰国へ

半年という短い期間で、本当にお金がない状況だったけど、
さまざまな人の縁に恵まれ、たくさんの経験をすることが出来た。

濃さで言えば1年分以上のものだったと思う。

 

半年間考え抜いた末、僕は将来アメリカの大学に入学しATCを取ることを決め、
まずは日本へ戻り鍼灸師あマ指師として就職し、お金を貯めることにした。

幸い、師匠の紹介で帰国後の就職先がカリフォルニア滞在中に決まり、
日本に帰ってから2週間後に仕事が始まることとなった。

 

帰国後に資格の申請を行い、無事に証明書を受け取り、鍼灸師としてのキャリアをスタートした。

この頃の僕は5年ほど就職した会社に勤めてお金を貯め、アメリカへ戻ってくるつもりでいた。1年後に豪華客船に乗ることになるとはまったく思いもせずに。

つづく

 

 

ふりかえってみて


僕は本当に人に恵まれているなと思う。

何か一つでも足りなければ卒業と同時にカリフォルニアへ語学留学に行くことは出来なかったし、現地で得たたくさんの経験をすることは出来なかったはず。

普通にエージェントを通して語学留学をしていてはきっとこんな経験は出来なかったであろうとも思う。
寛大な叔母さん家族のサポートがあったからこそ解剖実習のアシスタントが出来たし、アメリカの大学でのインターンが出来た。

 

自分でチャンスを掴むだけの努力と準備はしていたけど、そのチャンスすら訪れないことの方が人生には多い中、僕はたくさんのチャンスを頂いた。

今ではカリフォルニアは第2の故郷のように感じているし、叔母さん家族とは本当の家族のような付き合いをしている。(両親より頻繁に連絡を取っているほど)

 

世界が広がったのは間違いなく留学をしたお陰だし、
留学をしていなければ豪華客船で働くこともなかっただろう。

そういった意味で考えると
なるべくして今の道を歩んでいるのかなとも思う。


すべては自分の選択ではあるけれど、大きな何かに導かれているような気がしなくもない。
これからもその流れに身を任せて行けるところまで行ってみようと思う。

MITS

 

豪華客船についての記事はこちらから↓

http://mitsmatsunaga.com/blogs/cruise/


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